Transaktionen

―クリスマスの舞踏会―
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―クリスマスの舞踏会―


文・堀川ごぼこ
文・堀川ごぼこ

 物語の前年――。
 
 高い天井には百年前に西洋の王族から贈られたという贅を尽くしたクリスタルのシャンデリアが輝いている。年一回の舞踏会でしか使用しないこの別荘の広間の壁は、万里小路家の聖木で象徴でもある樟の葉と花をあしらった石膏の浮彫りで飾られていた。
 クリスマスに一番近い満月の夜に毎年開催される万里小路家主催の舞踏会に招かれることは、富裕層の間では特別な名誉とされている。会場は万里小路家の本邸ではなく、某高原にある別荘だった。広大な敷地と作り込まれた美しい庭園、そして重厚で豪奢な建物は本邸のそれに勝るとも劣らないという。
 際立って美しい青年にエスコートされた万里小路家当主、さきのが中央に進み出る。中二階のオーケストラ・ボックスで楽団員が一曲目のウインナーワルツを奏で始めると、二人は踊り始めた。優美な光景に招待客たちは思わずため息を漏らしたが、今宵ばかりは当主の娘であり次期当主となるかやのの姿を見ることができると期待していた者は、少なからず落胆していた。
「成人するまで若い男がいる場には姿を現さないという噂は、本当だったのですね」
「長らく続くしきたりらしいですから。お嬢様は本邸でお留守番だそうです」
「婚約者も婚礼まで会えないそうですね」
 小声でそう話していた招待客が、中央で当主の相手を務めている青年を見た。青年は万里小路家の遠縁にあたる五海棠家の末子、祥之輔だ。
「今宵は彼のお披露目というわけですね。次期当主の婚約者として」
 祥之輔が万里小路家のひとり娘、かやのの婿になることは周知の事実だった。来年に控えた婚礼前に、万里小路家懇意の人々に紹介するのだろう。密やかな噂話に花を咲かせる招待客たちの声は優美な舞踏曲にかき消され、踊る二人の耳には届かない。
「カドリールは不得手ですから、ワルツで安心いたしました」
 祥之輔とさきのは踊りながら言葉を交わす。
「相手が私で申し訳ないわね」
「とんでもありません。光栄です」
 そう言いながらも祥之輔は婚約者と踊る自分を想像した。
 まだ触れるどころか、会うことすら叶わない、写真で見るだけの婚約者。緊張のせいか少し震える手を優しく包み、リードすると、彼女のドレスの裾は風をはらむ。二人の優雅でいて若々しい踊りに招待客の目線は釘付けになる――。
「再来年の舞踏会では一緒に踊れますから、それまで我慢してちょうだい」
 さきのの言葉に祥之輔は現実に引き戻された。
「再来年か。まだまだ遠い未来のように感じます」
「あっという間よ」
 さきのが笑うと、一曲目が終わった。一礼の後、さきのは招待客に祥之輔を紹介した。再来年婿として迎えること、そして婚礼後に娘かやのが正式に公の場にデビューすることも発表する。一同の拍手に包まれながら祥之輔のエスコートでさきのが自席に戻ると二曲目が流れ、若い招待客が次々に踊り始めた。
 さきのの夫敬一は使用人へと的確な指示を出し、合間に招待客からの挨拶を次々に受けている。
「そういえば、この舞踏会で結ばれる子たちも多いのよ」
 さきのは微笑んではいるがどことなく探るような目つきであることに祥之輔は気付いた。俺が他の娘に惹かれていないか確認しているのだろう。祥之輔はそう思い、目を逸らすことなく笑った。そんな心配は無用だと言うように。
「招待状に予め意中の名を記入しておき、上手くいくよう取り計らうのがホスト側の役目。さきの様の差配が素晴らしいことの証ということですね」
「大昔の社交界ならいざ知らず、私はそのようなことはしないわ。皆、自由に気になる相手をお誘いしているだけ」
 そう言ってさきのは祥之輔の後方に目を向けた。庭園に面した壁のフランス窓は全て開け放たれ、自由に行き来できるようになっている。飲み物や簡単な軽食がテラスにも用意されており、そこで談笑する客もちらほらいる。
「庭園はロマンチックなライティングにするよう命じてあるの。あそこで二人きりになったら、お互いのことしか考えられなくなるようにね」
 さきのは妖艶に微笑み、祥之輔に視線を戻した。
「婚礼が終わったら、かやのさんと二人で滞在するといいわ」
 冴えた冬の夜空に満月が冷たく輝いている。その下にライトアップされた英国庭園がぼんやり浮かぶ。祥之輔はあの庭園を散歩する、新婚の自分たちを想像した。
「楽しみです」
 祥之輔はそう答えて目を伏せた。
「会いたい?」
「え」
「かやのさんに早く会いたい?」
「それは、もちろんですよ。ですがしきたりが……」
「しきたりを守るのは大事だけれど、祥之輔様がどうしてもって仰るなら、破ってもいいのよ?」
 さきのはまた探るような目つきをした。万里小路家の婿として自分は試されている。そう考えた祥之輔は、真剣な眼差しでさきのを見つめ、ゆっくり答えた。
「しきたりを守ることは名家に生まれた者の義務です。お気遣い感謝いたします」
 祥之輔は自分の完璧な答えと振る舞いに満足した。婿入りする家の当主に我儘を言い、不興を買うわけにはいかない。
「そう」
 さきのは薄く笑うと、いつの間にか手にしていたシャンパングラスを傾けながら、踊りの輪に視線を向けた。丁度演奏されていたメヌエットが終わったところで、相手から離れ休憩する者、次の相手を誘う者、そのまま仲睦まじく庭園に向かう者、それぞれが思い思いの行動をしている。一際豪華なドレスに身を包んだ現役大臣の令嬢が、長身長髪のひとりの男の腕にまとわりつきながら、壁際へと戻って行く。その男に次々と他の女性達がアプローチをかけ始めた。
「次は私と踊ってくださいますわね?」
「いいえ、私と」
「もう一度私と」
 彼女たちの間に一瞬火花が散ったが、
「では順番に」
 男が白いドレスの女の手を取ると、他の女たちは緊張感を保ちつつ身を引いた。さすがは上流階級の娘たち。礼儀はわきまえているんだね――。長身長髪の男、樟近開は優しく微笑み、スローワルツを踊り始める。本来ならこのような場にいる筈のない彼だったが、さきのに命じられ、令嬢たちをもてなす役目を与えられ、ダンスや談笑の相手を務めていた。
 さきの様も人が悪い――。
 開は万里小路家の聖木『クスノキ様』の世話をする『樟守』だ。特別重要な役目を担っているとはいえ、使用人には変わりない。それなのに燕尾服を着せられ、大事なゲストの相手を務めさせられているのは、容姿の優れた彼が舞踏会に華を添える存在になることの他に、よくよく命じられた大事なミッションがあるからだった。
 樟近は苦笑しそうになる自分自身を抑え、あくまでも優しげな眼差しだけを相手に向ける。返される眼差しは彼にすっかり恋してしまったと雄弁に語っている。視線が交わると恥ずかしそうに目を伏せる彼女は、既にステップをきちんと踏めなくなっていた。
 先程踊った現役大臣令嬢は、既に彼の手に堕ちていた。一曲目が演奏される前に声をかけられた開は、彼女を庭園の、誰も来ない場所に誘い出し、何度も絶頂に導いていたのだ。そして今腕の中にいる彼女――某大企業創業者の孫娘も同じだった。
「開さま……。私、もう……」
 震える声でそう漏らした彼女に、開は囁いた。
「この曲が終わったら、違う場所に行きましょう」
 彼女は濡れた瞳を上げ、半開きのままの口元をより綻ばせた。
「……二人きりになれる場所に」
 そう囁きながら、開はこの場にいない人物を思う。言葉を交わすことすらできない、大切な人物のことを。
 今頃ひとりで――もちろん、メイドたちは何人も本邸に残っているが――かやの様は何をしているのだろうか。夕食後にまた甘いものを楽しんでいるのだろうか。さきのが飼っている様々な動物たちと遊んでいるのだろうか。それとも、勉強を――。
「開さま……? どうなさいましたの?」
「貴女に見惚れていただけですよ」
 開はダンスの相手を見つめる目に熱を帯びさせた。彼女たちの親族の気に入らない男たちとの恋に熱狂している令嬢たちの目を覚ますのが、今夜与えられた開のミッションだった。彼が誘惑し、更なる刹那の『道ならぬ恋』を楽しませ、自分の置かれた現実を見つめ直させる。そして帰るべきところに帰すのだ。毎年受けさせられる特命にもうひとつの意味が込められていることにも開は気付いていたが、満たされない心を抱えた令嬢たちとの恋愛ごっことミッションの達成感が、彼の心に微かな安らぎを与えていたのは事実だった。
「……私は開さまを」
「今宵だけの夢だとお思いください」
「儚い夢だと仰るのですか」
「夢の方にこそ真があるとも言うでしょう?」
 その囁きは女を黙らせ、つかの間の激しい恋をただ味わうだけの存在にする。二人は踊りながらフランス窓の方にさりげなく移動し、消えた。
 招待客は我先にと、祥之輔とさきのの前に列をなすよう群がる。気品にあふれる祥之輔は現状申し分のない婿だった。
 さきのは夫に祥之輔を預け、一礼すると自分たちを囲んでいた人の輪から抜け出し、反対側の壁際に佇む、若い男に視線を向けた。眼鏡をかけたその男は某国伯爵令嬢と談笑している。
 次の春女学園を卒業するかやのは進学せず、屋敷で家庭教師の指導を受ける。彼は万里小路家次期当主の『特別な』家庭教師を代々務める敷禰家の眞人だった。その家庭教師は女性と定められているので彼がその役目を担うことは有り得ない。敷禰家当主と、かやのの家庭教師になる長女の二人が例年舞踏会に参加していたが、今年は眞人も招待を受けた。
「楽しんでくれているかしら?」
 伯爵令嬢との会話が途切れたタイミングで、さきのは眞人に声をかけた。
「気後れするばかりです。姉から毎年土産話を聞いてはいましたが、ここまで全てが素晴らしい舞踏会だとは、想像以上でした」
 眞人は慇懃無礼に微笑んだが、気後れしている様子は微塵もない。
「踊らないの?」
「お誘いがあれば」
 そう言って自虐的に肩を竦めた眞人だったが、彼がある種の壁を周囲に張り巡らせ、女性たちを誘い辛くしていることにさきのは気付いていた。
「娘も連れてくればよかったかしらね。普通ならもっと前に社交界デビューを果たしていてもいい年ですもの」
「しきたりをお破りになりたかったと」
「可憐に育った娘を皆に披露したいと思うのは母親としての自然な感情よ」
「もしお連れになられたとしたら、会場は大騒ぎになったことでしょう」
 眞人は意味ありげに続けた。
「会場の男性は皆、お嬢様に夢中になってしまわれるでしょうから」
「それはちょっと困るわ」
 さきのは笑い、眞人から離れた。眞人は去って行く彼女の後ろ姿ではなく、天井のシャンデリアを見上げた。現代社会にそぐわない、過度に豪奢な調度品と舞踏会。それに群がる着飾った招待客。
「灯滅せんとして光を増す、か」
 眞人はひとり呟き、口の端を上げた。早く可憐に育った娘に会いたい。だがこのままでは自分にそのような機会は与えられない。五海棠祥之輔と結婚した後、彼女が正式に社交界に姿を現すまでは。
「風する馬牛も相及ばず――」
 彼は反対側で政財界の重鎮と談笑している五海棠祥之輔に目をやった。行動に移す時は間近に迫っている。来年、この舞踏会はどのような形になっているだろう。
 今年と同じか、それとも――。
 

〈了〉